第二十五回 報恩講の巻物

 いよいよ、報恩講の時期が来ました。当寺も11月4日から、5日にかけて報恩講が厳修されます。
 近隣の方は、是非、ご参拝ください。
 京都御本山も例年通り、11月21日~11月28日の間に渡って厳修されます。こちらも、機会がある方はお願いします。

 報恩講については、昨年もある程度は説明をいたしましたので、そちらを一読願います。
 今回は、その報恩講だけに用いる巻物について、説明をさせていただきます。
 まずは『御伝鈔』(ごでんしょう)という巻物です。第三世の覚如上人がしたためたもので、上下二巻あります。本式の『御伝鈔』には絵が書かれており、四巻本という体裁になっております。その絵だけを集めて四幅の軸にしたのが『御絵伝』(ごえいでん)というものです。報恩講では向かって左側の余間にかけます。『御絵伝』については、おいおい内容を説明していくつもりですが、詳しいことを説明してあるホームページがいくつかありますので、まずは、そちらをご覧ください。

 次は『御俗姓』(ごぞくしょう・写真2)です。こちらは、蓮如上人が書かれた御文の一つです。冒頭の一句が「それ、祖師聖人の俗姓をいえば」という出だしから始まることから、『御俗姓御文』と呼ばれます。『御伝鈔』と同じく、親鸞聖人の御一生を語られていることから、報恩講に拝読されてきました。

 そして、『式文』(しきもん)『嘆読文』(たんどくもん・写真1)です。『式文』は覚如上人が書かれ、『嘆読文』は、その長男の存覚上人が書かれました。
 どちらも、親鸞聖人の徳をたたえ、その業績をしのぶ、報恩講の意義について述べられております。『式文』は正式には『報恩講私記』という名称で、一巻が、第一段、第二段、第三段の三つの段に分かれています。

 では覚如、存覚の両上人について、簡単な説明をさせていただきます。覚如上人は親鸞聖人のひ孫になります。
 現在、女系という言葉が、使われておりますが、まさに本願寺第三世覚如上人は、女系の人物です。親鸞聖人の娘、覚信尼(かくしんに)の孫になります。
 さて、なぜ、このようなことになったのでしょうか。
 本願寺の第二世の如信(にょしん)上人は親鸞聖人の孫となります。本願寺では法灯を継ぐと言います。
 如信には父親がおりました。親鸞聖人と恵心尼(えしんに)の間に生まれた長男(本来は、九条家の娘との間に男子が存在するので、正確には長男ではないのだけど、文献のほとんどでは長男となっております)
 この長男である善鸞を義絶(ぎぜつ)したところから始まります。善鸞は親鸞聖人が京都に戻られたとき、関東での留守を任されました。つまり、関東周辺の布教の中心者となったということです。如信も一人前の僧侶となり、福島に拠点を持ち、東北の布教を任されておりました。
 だが、善鸞は聖人の大切な関東の門弟(もんてい)たちとトラブルを起こしてしまいました。「自分だけが父である聖人から伝授された秘密の教えを持っている」とかなんとかという言葉を言ったらしいですね。現世利益(げんぜりやく)につながる南無阿弥陀仏のお札を売ったりなどの、数々の問題がありましたが、結局、それが決め手となったようです。
 善鸞義絶後の聖人は、より真宗の教義をあきらかにすることに没頭し、和讃など数々の著作を残しました。
『歎異抄』の第六章に「弟子一人ももたず候」という言葉が残されているように、自分の死後、誰かが教団のあとを継ぐという考え方はなかったのでしょう。
 こうして、聖人は亡くなられました。そして、関東の教団は、有力門弟の一人、真仏(しんぶつ)の高田専修寺が継ぐことになりました。

 このままでは、聖人の血筋は絶えてしまうところだったのですが、ここで、活躍されたのが覚信尼です。この方には二人の旦那がいました。死別した日野広綱(ひのひろつな)と小野宮禅念(おののみやぜんねん)です。
 広綱は親鸞聖人とは遠縁にあたる人物ですので、聖人の覚えもよく、彼は仏門には入らなかったのですが、教えに傾倒した弟子のようなものです。
 小野宮禅念は名門小野家の一族で、京都では貴族としても大きな力を持っていました。この小野家も、聖人の教えにふれ、広大な領地を寄進されたのです。
 関東では親鸞聖人の残されたものの、ほとんどは、門弟たちに分配されました。ですが、すべての門弟が、そのような考え方を持ったわけではありません。一部の門弟は京都の方に戻りました。
 そこで、覚信尼と合流し、その寄進された領地、(これが現在の東西大谷本廟の地にあたります)に教団を移したのです。これが、本願寺の始まりです。
 今の本願寺の場所は、以前にも説明をしましたが、応仁の乱で京都が焼け野原になったあと、それぞれ、豊臣秀吉(西)、徳川家康(東)から寄進されたものです。

 如信は、真仏の亡き後、その教団の中心者となりました。そのあと、やはり遠慮をしたのでしょうか、第三世の座を息子ではなく、覚信尼の孫である覚如上人に法灯を継がせたのです。従兄弟である覚惠(かくえ)にしなかった理由はわかりませんが、年齢が近かったからでしょうね。このようにして、覚如上人が誕生しました。

 嘆読文を遺された存覚上人は、先ほど述べたように覚如上人の長男です。ですが、存覚上人は本願寺の歴代の上人には入っておりません。第四世は覚如上人の次男、従覚(じゅうかく)の息子、善如(ぜんにょ)上人があとを継ぎました。
 存覚上人は覚如上人に二度にわたって義絶をされました。詳しい理由はわかりませんが、一度目はあまりにも、親鸞聖人の教えに原理的に忠実になりすぎて、現実的に本願寺を盛り立てていこうとする父親を批判したということです。ですが、覚如上人も歩み寄って復縁しました。
 二度目は南北朝の争いが関係しているということです。当時の朝廷は後醍醐(ごだいご)天皇の南朝と足利尊氏に擁立された光明(こうみょう)天皇の二カ所が存在していました。日増しに北朝の力が強くなっていくにもかかわらず、南朝側に同情している存覚を形として退けたということです。
 あくまでも、決定的な文献がありませんので、後世の真宗学者の想像ですが、ある意味、純粋で不器用な人物像が描かれます。
 そのような理由で、存覚上人は歴代上人になれなかったのにもかかわらず、あがめたてられております。
 式文よりも短いということが理由でもありますが、今でも大半の住職が、報恩講のときに読んでおられるのは、存覚上人の『嘆徳文』なのです。
 存覚上人のお心も続いておられるということですね。